底んところ

緊急事態宣言が解除され安堵の一息をついたのも束の間、「微増」とはいえ感染者数が増えてきている。 所々では、小さなクラスターも発生。 東京では独自の「東京アラート」なるものが発動されている。 それでも、もう我慢ならないのか、街や観光地には多くの人々が繰り出している。 感染者数が爆発的に増えなければ(?)、今月19日には(?)、一部地域から(?)、越境規制も緩和される(?)。 そうなると、人の行き来は、ますます増えていくはず。 慎重派の私は、解除の前後でほとんど生活スタイルを変えていないけど、人々のストレスと経済を考えると、無策でなければ、それはそれで悪いことではないだろう。 ただ、あれから二週間近くたつから“そろそろ大きな第二波がくるのでは?”と、不安に思っている。 知ってのとおり、世界は、健康上のことだけでなく経済的にも大打撃を受けている。 中小零細企業の倒産、解雇・失業はもとより、大企業の業績も悪化。 しかし、こんなに甚大な被害を引き換えにしてもなお、ウイルスは終息していない。 それでも、“withコロナ”ということで、各種の規制要請は次第に緩和されつつあり、“夜の街”が不安視されながらも、経済の歯車は小さいところからゆっくり回り始めている。 今のところ、外食の予定も出かける予定もないけど、行きつけのスーパー銭湯が再開しているから、行ってみようかどうか迷っている。 今、流行りの“水着マスク”を着けて行けば、大丈夫かな。 しかし、そういった、考えの甘さと軽率な行動が、感染を再拡大させてしまうのかもしれず、悩ましいところである。 何度が仕事をしたことがある不動産会社から特殊清掃の依頼が入った。 「管理するアパートの一室で腐乱死体が出た」 「“異臭がする”ということで、隣室の住人が通報」 「どんな状況か、行ってみてきてほしい」 お互いに顔を見知っている我々は、“人が死んでいる”というのに声のトーンもテンポも落とさず、不謹慎にも、時折、談笑を交えながら現地調査の段取りを打ち合わせた。 アパートが建っているのは郊外の住宅地。 近年に大規模修繕を行ったのだろう、建築から三十年近くたっているにも関わらず、それほど古びて見えることはなく、結構きれいな建物。 現場は、その二階の一室、間取りは2DK。 汚染度はライト級~ミドル級程度。 ニオイは、そこそこパンチのある濃度で放たれていたが、実際の遺体汚染はそれほど深刻な状態ではなく、床材もクッションフロア(CF)であったため、遺体痕清掃も、「特殊清掃」というほどハードな作業ではなかった。 亡くなったのは、初老の男性。 無職のため社会から距離が空いており発見が遅延。 その孤独な生活は、生活保護を受給して維持。 にも関わらず、部屋からは、故人が節度・良識をもった生活をしていたことはうかがえず。 ギャンブルのマークカードがなかっただけマシかもしれないけど、酒の空缶やタバコの空箱が転がり、整理整頓・掃除もロクにできておらず。 もともと、この類の人間を快く思わない私は、冷酷非情は承知のうえで、 「ただ、“働く気がない”のを“働けない”ってことにしてただけなんじゃないの?」 と、口の中で飼っている苦虫を噛み潰した。 訊けば、このアパートに暮らしているのは、大半が生活保護受給者。 小ぎれいな建物だし、一般の人でも暮らせる充分な間取り。 ただ、周辺には、より条件のいいアパートが乱立。 家賃が同等であれば、少しでも立地がよく、建物や設備のいい物件に人は流れる。 そういった人気物件は、黙ってても一般の入居者で埋まるわけだから、社会的・人間的にハイリスクな生活保護受給者は相手にしない。 一方、その逆で、人気のない物件はそんな“ワガママ”は言っていられない。 “空室にしておくよりマシ”ということで、生活保護受給者でも何でも入れるのである。 不動産運用って、「金持ちの道楽」とはかぎらず、一部の富裕大家を除き、庶民大家の中には、借金して投資して運用している人も少なくない。 また、月々の家賃収入が、そのまま自分の生活費になっている大家も。 空いたままの部屋は一銭の金も生まないわけで、庶民大家には、そのままにしておく余裕はない。 で、人気のない物件は、空室を埋める策として地域相場より家賃を下げざるをえず、結果として、それが生活保護受給要件(家賃の上限額)を満たして、入居契約に結び付きやすくなる。 同時に、それがキッカケで、生活保護部署の役人とパイプができ、以降もつながっていくのである。 受給者は中高齢者、持病がある人が多いため、一般の人に比べて孤独死する可能性が高いことがリスクとして挙げられるかもしれないけど、役所(税金)が生活費の面倒をみるのだから、家賃を取りっぱぐれることはない。 つまり、「経済的にはローリスク・・・ノーリスク」ということ。 結果的に、大家と入居者・役所の利害が一致し、自ずとアパートにはそういった人達ばかりが集まり、本件の類のアパートができ上がるのである。 実際、そういったアパートは街のあちこちにあり、私が、苦虫を噛み潰しながら片づけてきた現場にも、そういったアパートが多くあった。 受給者は、“中高齢者”“持病あり”といったケースが多いのだろうと思うけど、中には、そうでない人もいる。 “若年・無傷病”でも生活保護を受給している人が。 この現場の隣室に暮らす女性がそうだった。 もともと、故人が発見されたのも、女性が「隣の部屋がクサい」と言いだしたことがキッカケ。 で、「自室もクサくなった」ということで、その後、私は女性宅を何度か訪れ、女性の身辺を知ることとなった。 女性は母子家庭だそうで、3歳くらいの小さな子供がいた。 どういう経緯で生活保護の受給要件を満たしたのか怪訝に思うほど、歳は若く身体も健康そう。 会話もハキハキとしており、表面上は精神疾患があるようにも見えなかった。 ま、その辺のところは、私が詮索することではない。 私が引っかかったのは、「母子家庭」といいながらも、そこに“男”がいたこと。 平日の昼間から、スエット姿、寝ぼけた表情。 私が挨拶をしても、目も合さず無言でペコリと頭を下げるだけ。 私が考えていることが伝わったのか、フテ腐れたようにタバコを吹かしているときもあった。 消臭作業と臭気判定のため、女性宅には何度か入ったのだが、平日の昼間、いつ行っても男の姿はあった。 もしかしたら、夜の仕事をしているのかもしれなかったけど、マトモに仕事をしているような善良な雰囲気は醸し出していなかった。 どうみても男は女性親子と一緒に、この部屋で暮らしていた。 私の先入観も手伝って、想像された素性は“ヒモ”。 もちろん、誰と付き合おうが、誰と暮らそうが女性の自由。 しかし、生活保護受給者となると、その自由度は下がって然るべき。 世に中には、金銭(育児手当・児童手当・減税等)目的で、戸籍上でのみの偽装離婚をしている夫婦がいる。 もちろん、この男女がその類なのかどうかわからない。 しかし、遺体異臭がなくなった時点でも、何かよからぬことをやっていそうな人間の “人間異臭”はずっと残り、それは、クサいものには慣れっこの“ウ○コ男”の鼻をも捻じ曲げるほどだった。 これまでも、受給者の部屋を片付けたことは数えきれないくらいあるけど、酒を飲み、タバコを吸い、博打をやっていた形跡のある部屋もまた、数えきれないくらいあった。 死んだ人に悪意を抱くのは私も悪人だからだろうけど、死を悼むどころか、頭にくるような現場だっていくつもあった。 もちろん、“オフレコ”としてではあるけど、親しい役所の人間も、 「大半の受給者は詐欺師」 と言っていた。 私も、現場でのそう感じたことは多々ある。 また、個人的に付き合いのある警察官も、 「受給者に人権はいらない」 と言っていた。 私も、一般の人と比べて人権が制約を受けるのも当然だと思う。 生活保護制度についてプライベートで話すと、愚痴や悪口が、噴火した火山のようにでてくる。 世の中に、同様の意見を持っている人は多いように思う。 しかし、それは、反論の余地のない現実。 私も、私なりに、仕事を通じて感じたことが蓄積され、また、似たような不満を持っている。 これはまだ緊急事態宣言が解除される前のことだけど、とある失業者(40代男性)がTVインタビューを受けている姿が映った。 その人物は、家賃も払えなくなって住処を失いかけており、「このままだと生活保護を申請するしかない」と言っていた。 ただ、どうも求職活動はしていないらしく、それについての言及はなし。 そんな中での、“失業→生活保護”といった考え方に、私は不快感に近い違和感を覚えた。 「安直」というか「短絡的」というか「他力本願」というか「無責任」というか・・・ 失業と生活保護の間には“就職活動”が入るべきではないだろうか。 確かに、羨望の眼差しを浴びるほどのキャリアや、威張れるほどの技能でもないかぎり、この時世で、再就職を果たすのは難しいかもしれない。 難儀することが容易に想像でき、前向きに就活する気分になれないのかもしれない。 また、仮に仕事が見つかったとしても、「キツい、汚い、危険」いわゆる3Kの仕事とか、気のすすまない仕事である可能性が高い。 しかし、もともと、仕事は“好き嫌い”でやるものではないし、特に今は「好き嫌い」を言っているときではないと思う。 この厳しい現実にあって、私の脳裏から「失業」という文字が消えることは片時もないけど、「生活保護」という文字は頭の片隅にも浮かんでこない。 受給要件が簡単にクリアできるような生き方はしてこなかったし、頭と外見を中心に欠陥だらけではあっても働けないほどの傷病も抱えていないし、その前に、その意思がない。 ただ、この私だって、働くのは好きじゃない。 怠けたい、楽したい、遊んで暮らしたい。 「働かなくても生きていけたら どんなにいいいだろう」って、常に憂いている。 税金だって社会保険料だって、払わずに済むのなら払いたくない。 そんなもの払うくらいなら、その分、生活に余裕をもってプチ贅沢でもしたい。 しかし、マトモに生活していくためには、そんなことできるわけがない。 しかも、どうせ生きるのなら最低限の暮らしはイヤ。 少しでも快適に、少しでも楽しく、少しでも幸せに暮らしたい。 となると、その方法は、ただ一つ。 しっかり働いて、社会的責任を果たしていくしかない。 勤労と納税は国民の義務。 社会保険料だって第二の税金で、納める義務がある。 “生活保護費”の原資は、良民の労働による血税。 しかし、受給者の多くは、まともに税金や社会保険料を払ってきていないわけで、そんなデタラメな生活をしていたから困窮したとも言えるわけで、こういうのを「理不尽・不条理」と言わずして、何が「理不尽・不条理」なのか。 そういった義務・責任を果たさないでおいて、“もらえるモノはもらう”といった盗人根性には、憤りすら覚える。 一方で、真に生活保護で守られるべき人に、本当に支援を必要としている人のところに届いていないような気がする。 邪悪な受給者が、生活保護制度の本分を歪め、良民を裏切り、受給者の品格を貶めているが故、また、こういう人達にかぎって結構な人格者だったり高潔なプライドを持っていたりするが故に、生活保護に頼ろうとしない現実もあると思う。 「人様に迷惑をかけたくない」と、仕事を二重三重にかけもちして働いている人、身体を壊すギリギリのところで節約生活を送っている人、惨めな想いに耐え忍んでいる人もたくさんいると思う。 事故や犯罪等の被害者で、自分の努力ではどうすることもできない貧困に陥っている人も。 一生懸命 働いているのに、我が子にひもじい思いをさせなければならない親の悲しさや惨めさを考えたことがあるだろうか・・・ 真に社会全体で助ける必要のある人が、正々堂々と受給できるようにならなければいけないのではないだろうか。 私は、生活保護制度に反対しているわけではない。 支援が必要な人を社会全体で守る制度は必要。 しかし、“正直者がバカをみる”社会であってはならないし、ズルい人間、ただの怠け者を甘やかすだけの制度であってはならない。 しかし、現実は、“だらしない生き方をしてきた人間のズルい生活を、善良な市民が身銭を削って守っている制度”になっていやしないだろうか。 働きもせず、他人の金で飯食って、酒飲んで、タバコ吸って、ギャンブル打って、寝たいときに寝ている者が、寝る間も惜しみ、嗜好を楽しむ余裕もなく働きながらも貧困から脱出できないでいる人より楽な暮らしをしているなんて、どう考えてもおかしい。 現実の運用は、はなはだ不愉快であり、大きな不信感と違和感を持っている。 では、 でたらめに生きてきた者は飢え死にしても仕方がないのか? だらしない生き方をしてきた者は貧乏しても仕方がないのか? ・・・ある意味で、私は「仕方がない」と思う。 少なくとも、日本は自由主義・資本主義の国なのだから。 でなければ、生活を支援する代わりに、人権に相応の制約を加えるべきだと思う。 例えば、一定の場所(言葉は悪いけど“収容所”みたいなところ)に集めて、能力に応じた労働を課すとか。 それが、一般の人が遠ざける、単純作業や重労働、3K仕事であってもやむを得ないだろう。 ただし、特殊清掃だけは除外して・・・私の仕事がなくなるから。 「オマエは、そこまでの苦境に陥ったことがないから、そこまで困窮したことがないから、そんな冷酷非情なことが言えるんだ!」 と言われるかもしれない。 確かに、そう・・・それは認める。 しかし、多くの一般市民は、そうならないために、汗かきベソかき、必死に頑張っているのである。 その頑張りによって獲た実を一方的に横取りすることも、また、人権侵害なのではないだろうか。 世の中は上にいる人達が動かしていることは承知しているけど、たまには、私がいる“底んところ”にも目を向けてほしいものである。 

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尻拭い

ある日の朝、見知らぬ番号で私の携帯が鳴った。 「“とても良心的な方”ってきいたものですから・・・」 「実際にお仕事を頼むことになるかどうかわからないんですけど・・・」 「相談だけでも大丈夫ですか?」 声の主は、年配の女性。 以前から懇意にしてくれている人の紹介での、仕事の問い合わせだった。 人には人それぞれの生き様があり、人生には人それぞれのドラマがある。 そして、それをじっくり聴くのが嫌いじゃない私。 下衆な野次馬根性もあるけど、それだけじゃなく、自分にとって糧になることも多いから。 ただ、結果として、人の目には、それが“親身に話をきいてくれる”という風に映るのかもしれない。 私は、“良心的”という言葉に、小さな罪悪感と、中くらいの照れ臭さと、大きなプレッシャーを感じながら、それでも、単細胞らしく気を良くして、イソイソと現場に出かけて行った。 出向いた現場は、古い鉄筋構造の建物。 「マンション」と呼ぶには老朽低層すぎる、そうは言っても、重量鉄骨構造は「アパート」と呼ぶには相応しくない。 メンテナンスも行き届いておらず、朽ち果てるのを待っているだけのような建物。 間取りは2DK。 充分に床は露出していたけど、掃除なんか何年もしていない様子。 散らかり放題、汚れ放題、たくさんのゴミが溜まり、至るところが真っ黒・真っ茶色、ホコリだらけカビだらけ。 タバコ臭・油臭・ゴミ臭などの生活異臭も充満。 それは、そのまま故人の人格や生き様を表しているようでもあり、「男性の一人暮らしなんて、だいたいこんなもんですよ」といったセリフもお世辞に聞こえるくらい、ヒドい有り様だった。 そこで暮らしていたのは、70代後半の男性。 無職・無年金、生活保護を受けての一人暮らし。 フツーだったら、部屋の汚さに目を奪われるばかりで、そんなことは気にも留めないのだろうけど、フツーじゃない私には“ピン”とくるものがあった。 それは、そこが孤独死現場であるということ。 もともと、「孤独死現場」とは聞いていなっかたが、DKの床に敷かれた新しい新聞紙と それに滲むシミが、私にそのことを教えてくれた。 相談者は、「一応、血のつながった妹」と名乗る高齢の女性。 相談の内容は、この一室の後始末について。 故人の死を悼んでいる様子はなく、滲み出ているのは困惑の想い。 困惑の表情、怒りの表情、狼狽の表情、嘆きの表情、苦虫を噛み潰したような表情・・・色んな表情を織り交ぜながら、また、複雑な心情を滲ませながら、ことの経緯を話してくれた。 故人は女性の実兄で、若い頃からの放蕩者。 高校の頃からグレはじめ、以降、ずっと家族に迷惑をかけ通し。 自ら高校を中退して社会に飛び出たものの、コツコツ働くことができず。 どんな仕事に就いても長続きせず、トラブルを起こしてクビになることも多々。 色んな理由をつけては転職を繰り返した。 一方、飲む・打つ・買うの三拍子は勢揃い。 おまけに、ケンカや借金も日常茶飯。 収入はないくせに金遣いは荒く、両親が、借金の肩代わりをしたもの一度や二度のことではなく、親のスネは細る一方。 悪い連中と悪さをしては警察の厄介になるようなことも繰り返し、二十代も後半になると、そっちの世界にズルズルとハマっていった。 素行の悪さは近所でも有名。 で、人間という生き物も、他人のスキャンダルを好む。 故人の悪行は、近隣奥様方の井戸端会議のかっこうのネタにされ、犯罪者をみるような好奇の目は、本人を飛び越え家族にまで向けられるようになった。 特に近所に迷惑をかけていたわけでもないのだけど、そのうちに、好奇の目は白い目に変わっていき、そこでの暮らしは“針の筵”のようになっていった。 しかし、だからといって家を越すことはできず、ただただ、それに耐えるほかなかった。 家族が故人と“絶縁”したキッカケは二つ。 一つ目は、借金のかたに家を失いかけたこと。 両親が保証人になっていたわけでもないが、借金の取り立ては両親のもとへ容赦なくきた。 犯罪ギリギリの嫌がらせを受けたこともしばしば。 借金取りは近所の目もはばからずやって来ては、脅しにもとれる派手な雑言を吐いて、女性家族を追い詰めた。 「子の不始末は親の責任」と、それまでも故人がつくった借金を肩代わりしてきた両親だったが、借金のペースは返済のペースを上回り、とうとう、家を売らないと弁済できないところまできてしまった。 しかし、家を失ったら生活が立ち行かない。 切羽詰まった両親は、「これを最後にしよう!」と、親戚縁者を頼って何とか金を工面。 ささやかなプライドと生活の余裕を失うこととを引き換えに、ギリギリのところで家を失うことは免れた。 二つ目・・・それは、女性が当時 交際していた相手の両親に結婚を反対され、破談になったこと。 「実兄にそんな人間がいたら、いつ どんな災いが降りかかってくるかわからない」と。 事実、“災い”は、何度も降りかかってきていたわけで、女性は相手方にまったく反論することができず、泣く泣く身を引いた。 この出来事は、本当に悲しくて悔しくて、自殺すら考えたという。 その後、別の人と縁を持つことができたけど、その時もやはり兄の存在が邪魔をした。 相手側の両親には露骨にイヤな顔をされ、事実上、兄と絶縁することが結婚の条件みたいになった。 事を起こす度、「心を入れ替えてやり直す!」と詫びた故人だったが、すぐに堕落。 血のつながった親兄妹といっても、それぞれが一人の人間であり、それぞれに人生がある。 繰り返し、何度も故人に裏切られた家族は、故人を信じることを諦めた。 そして、自分達の人生が台なしになる前に故人との絶縁を決意。 固い意思をもって、「親でもなければ子でもない」「兄でもなければ妹でもない」「死のうが生きようが、まったく関知しない」と絶縁を宣した。 それに逆ギレした故人は、それまで散々迷惑をかけてきたことを棚にあげ「そんな冷たい人間とは、こっちから縁を切ってやる!」と捨て台詞を吐いて、姿を消した。 そして、それ以降、音沙汰はなくなり、結局、それが、故人との最期の別れとなった。 生前の両親も、それ以降、二度と故人と顔を会わせることはなかった。 故人のせいで大きな借金を負った両親は、平穏な老後を奪われ、身体が動くかぎり働き続けた。 その上、世間の好奇の目にさらされ、下げなくてもいい頭を下げ、親類縁者の中で肩身の狭い思いをしなくてはならなかった。 楽しい余生を故人が奪ったかたちとなり、二人とも、疲れ果てたように逝ってしまった。 女性は、故人にその死を知らせようとも思わず、故人もその葬式に来ることはなかった。 「絶縁!」と言ったって、それは社会的・心情的なもので、血縁をはじめ、戸籍上の縁を切ることはできない。 したがって、故人が何かやらかせば、警察から何かしらの連絡が入ってくるはず。 また、いつ難題が降りかかってくるかわからないわけで、別離後の数年は落ち着かない日々が続いた。 それでも、時間は多くのことを解決してくれる。 年月が経過するとともに故人のことは記憶から遠のいていき、そのうちに頭から消えていった。 何年かに一度、ふとしたときに、 「どこかで生きてるんだろう・・・」 「どうせ、ロクな暮らしはしていないだろう・・・」 と、思い出すようなことはあったけど、そこには楽しい想い出も懐かしさもなく、再会を望む気持ちも湧いてこず。 「このままアカの他人として忘れたい」 という気持ちが変わることはなかった。 そうしているうちに、女性の歳を重ね、子供達は独立し、夫は亡くなり、一人きりの老後ではあったけど平穏に暮らしていた。 そんな静かな日々に、突如、何十年も前に別れたきりの兄の訃報が舞い込んできて、再び、女性の心に苦悩の種を撒いたのだった。 女性は、弁護士に相談して相続放棄の手続きをすすめていた。 そして、永年の絶縁関係なのだから、当然、部屋の賃貸借契約の保証人にもなっておらず。 弁護士からも、「家財処分等、一切やる必要はない」と言われていた。 つまり、死後の始末において、“女性には法的責任はない”ということ。 ましてや、負の遺産の始末なんて、好き好んでやる人はあまりいない。 女性は、そのことを充分に理解していた。 しかし、一方で、大家からは「家財は身内が片づけるべきでは?」とプレッシャーをかけられていた。 そして、“血縁者の道義的責任”ってヤツが、女性の心に引っかかっていた。 女性は、年金生活。 決して裕福な生活ではなく、普段は爪の先に火を灯すような生活をしていることは容易に想像できた。 しかも、既に、故人を葬るため、結構な費用を負担。 それを知ったうえで私が算出した見積は“○十万円”と決して安くはなく、「どこが良心的!?」と憤られても仕方がない金額に。 「“儲けが入ってない”と言ったらウソになりますけど、経費もそれなりにかかるものですから・・・」 それを聞いた女性は、ヒドく表情を曇らせて、 「やっぱり、それくらいかかるんですね・・・」 と、諦めたように溜息をついた。 単に金銭だけの問題ではなく、迷いの種は他にもあり、女性は悩んでいた。 仮に放棄しても、大家に顰蹙をかうくらい。 借金はあったかもしれないけど、広く社会に迷惑をかけるわけではなく、女性が負うべき責任は見当たらず。 それでも、女性は、放棄することが正解だとは思えないみたいで、少しでも正解に近い答を求めるように、 「どうしたらいいと思いますか?」 と訊いてきた。 「血縁者として道義的な責任は負うべき」と言えば、商売根性丸出し、足元をみての押し売りみたいになる。 「法的責任はないのだから放ってもいいのでは?」と言えば、自らの手で大事な一仕事を捨てることになる。 だから、 「私は、お金を払っていただく側の業者ですから、“こうした方がいい”って言える立場じゃないんですよね・・・」 と、結論を導き出すことを躊躇。 結局、“良心的な人間”らしい気の利いた一言が捻り出せず、あとは沈黙でフェードアウトするしかなかった。 女性と故人のような疎遠な関係ではなく、懇意にしていた親族でも、死を境に“知らぬ 存ぜぬ”を通す人もいる。 ヒドい人になると、金目のモノだけコッソリ持ち出して知らんぷりする者もいる。 そんな悍ましい光景を目の当たりにすると、薄情な私でさえ「薄情だな・・・」と軽蔑してしまう。 逆に、どんなに疎遠な関係でも、法的責任はなくても、血縁者としての道義的責任を感じて、身銭をきって故人の後始末をする人もいる。 薄情な私は、「俺だったら放っておくけど・・・奇特な人だな」と、感心することもある。 私は、自分ごときが意見できるものではないことを承知のうえで、それまでに携わってきた多くの現場を思い出しながら、色々なケースがあり、色々な人がいることを話した。 そして、ことは善悪で判断できるものではなく、その人その人の価値観や考え方によって異なること、また、それが、その後の人生に“吉”とでるか“凶”とでるかはわからないけど、何かしらの“節目”というか・・・“分岐点”になるのではないかということを話した。 そして、 「決して小さい金額ではありませんし、相続放棄に抵触することがあったらいけないので、お子さん達と弁護士とよく相談して決めて下さい」 「返答に期限はありませんし、お断りいただいても構いませんから」 と、最低限、“良心的な人間”らしいところをみせて、その場を締めた。 “時間をかけると迷いが生じるばかり”と考えたのだろうか、女性からの電話は翌朝に入った。 “数日先か・・・もしくは、もう連絡がくることはないかもな・・・”と思っていたので、早々の連絡は意外だった。 「子供達は反対したんですけど、お願いすることにしました!」 「何かの因果でしょう・・・こんな人の妹に生まれてきたのは・・・」 「私だってこの歳で先は短いですから・・・この先、心に引っかかるものを残したまま生きていくのは気がすすみませんしね!」 女性は、自分に言い聞かせるようにそう言った。 世の中にとっては ありえない現場でも、私にとっては ありがちな現場。 慣れた仕事でもあり、作業は難なく進行し終了。 最後、完了の日、私は再び女性と待ち合わせ。 私は、薄汚れたまま空っぽになった部屋で、実施した作業の概要を女性に説明。 女性は、作業工程一つ一つに会釈するように頷きながら、黙って私の話に耳を傾けた。 そして、一通りの説明を終えた私が預かっていた鍵を差し出すと、 「ありがとうございました! 本当にお世話になりました!」 と言って、恐縮するくらい深々と頭を下げてくれた。 「さようなら・・・」 現場を去るとき、玄関にカギをかけながら、女性はそうつぶやいた。 その表情は、長年負っていた重荷が肩からおりたのだから、清々しい笑顔であってもよさそうなものだったけど、その横顔はどことなく寂しげな感じ。 こんな性格の私の目は それを見逃さず、また、このクセのある感性は自ずと動いていった。 故人の犠牲になって多くを失った青春時代・・・ 故人と別れて平和に過ごした数十年・・・ そして再び、老い先短い自分に降りかかった故人の尻拭い・・・ そうした自分の人生を振り返ると一抹の寂しさが過り、それが顔に表れたのかもしれなかった。 そして、それを振り切るため、残り少ない人生を楽しく生きるため、上を向いて堂々と生きるために、“涙の想い出”にサヨナラしようとしたのかもしれなかった。 そんな風に想うと・・・ 私にとっては ただの汚仕事が、私の人生にとっては ただならぬ大仕事になる。 そして、サヨナラしたい過去をたくさん抱えながらも、“特掃隊長ってのも悪くないか”と、この人生を笑って受け入れられるのである。

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腐乱遺体+ゴミ部屋

                     

「旅行に行く」と言って休暇を取っていたはずの同僚が、予定日になっても出社しないため、様子を見に行くと・・・

旅行に行くことなく室内で亡くなっていました。

□死後:推定7日                                                □作業場所:1DKマンション2階(階段降ろし)                                                      □作業内容:特殊清掃 遺品整理 不要物分別梱包・搬出 消臭消毒 家電リサイクル 一部解体                                    □作業時間:延3週間                                            □作業員:延人数6名                                                      □作業料金:360,000円(税別)(諸経費込)(内装工事別)                             □費用負担:遺族

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自制の時世

4月7日に緊急事態宣言がだされてから、はや一か月半余が経つ。 そして、5月14日には、多くの地域で宣言が解除された。 同じく、5月21日には関西圏でも。 苦境に喘いできた人々にとっては、「長いトンネルの出口が見えてきた」といった感じだろうか。 私がいる首都圏一都三県でも、解除が期待されていたが、結局、それもなし。 それを象徴するかのように、昨日午前中までの数日間、空も記録的な雨曇が続いていた。 しかし、判明している感染者数の明らかな減少が「遅くとも月内には解除されるだろう」といった憶測を呼び、14日を機に、何かよくないものに誘惑されているかのように、人々の気が緩みはじめたような気がする。 しかも、明日には宣言が解除される見込みだそうで、それ以降の人々のハジケぶりが心配になる。 そんな中でも私は、幸か不幸か、元来の悲観的神経質・ネガティブ思考派であり、この先の生活不安が常につきまとっているため、一向に気は緩んでいかない。 私の勤務先は「ヒューマンケア株式会社」という零細企業で、所属しているのは「ライフケア事業部」という部署なのだが、事故現場・自殺現場・腐乱死体現場など“不要不急”じゃない仕事もある中、遺品処理・ゴミ部屋・リフォームなど“不要不急”の仕事も多い。 で、その“不要不急”の仕事は減っている。 三月下旬から、コロナの影響で新規の仕事は減りはじめ、4月は激減。 ただ、それ以前に契約していた現場が何件かあったので、5月以降が正念場になることや、新規受注がゼロになることを覚悟しながら、4月はそれらをポツポツとさばきながら何とか乗り越えた。 しかし、GWを過ぎると再び仕事が入り始め、今現在は、恐れていたほどは減っていない。 何のお陰か・・・そういうわけで、あくまで「今のところ」という条件は付くけど、「失業」という最悪の事態は免れている。 一方で、世の中に目を向ければ、倒産・失業の数値は上がりっぱなし、自殺者が増加することも見込まれ、更年期脂肪に覆われた胃が締めつけられるような憂いは続いている。 TVをつければコロナのニュースばかり。 毎日のように各地域の感染者数が発表され、一喜一憂している。 しかし、私は、「感染者」という呼び方に異論がある。 「感染者」ではなく、「感染判明者」とか「発症者」という風にした方がいいと思う。 「感染者」だと、「保菌者」「無症状感染者」をイメージしにくい。 そして、その「感染者数」が減少していると、ウイルスが死滅していっているような印象が強く、どうしても警戒心を薄まってしまい、気が緩んでしまう。 しかし、現実は、決して油断できる状況ではないはず。 これまでも「感染経路不明者」は多くいたわけで・・・ということは市中に保菌者がたくさんいるわけで・・・ 細心の注意をはらって生活してはいるものの、私自身が保菌者である可能性だって充分にある。 ということは、緊急事態宣言が解除されても、外出自粛・休業要請が解除されても、それは、あくまで机上の事情による処理。 また、発表される感染者数がどんなに減っても、保菌者数までは把握できない。 重症化しやすい要因をもっている人はもちろん、一般の人も油断は禁物! 万人が感染しない努力をするべきで、万人が感染させない責任を負うべきだろう。 これから夏にかけて感染者数が落ち着いてくることが予想されているが、それは季節的要因や我々の努力(休業・自粛)があってのこと。 コロナウイルスに勝利したからではないわけで、根本的な問題は何も片付いていない。 秋冬にかけて、また大きな波・長いトンネルがくることが懸念されている。 だから、専門家の「この夏は、秋冬にかけてやってくるであろう大きな第二波に備えるべき」という言葉は重く受け止めなければならない。 明日以降、段階的に緩められていくのだろうけど、今現在、首都圏では、市民への外出自粛要請、店舗への営業自粛要請も継続中。 しかし、一部の市民、一部の店舗には、「我関せず」と無視し続けている者も少なくない。 社会的動物である一人一人には、法律上の責任の前に社会的責任を負う。 社会から守られている反面で、社会を守る責任も負っている。 「普段、自分は社会に守ってもらっている」という意識が希薄・・・皆無なのだろう。 「ヒマだから」「営業する方がわるい」「居酒屋の方がよっぽど三密」等と言ってパチンコ屋に行列している連中。 ただ欲望の赴くまま、自制できないことを“自分の自由”“当然の権利”とでも思っているのだろう。 “忍耐力がない”“自制できない”“欲望を抑えられない”ということ以外にまっとうな理由があるのなら聞いてみたい。 おそらく、「なるほど」「それなら仕方がない」と思えるような理由なんかないはず。 結局のところ、義務を負わないヤツほど権利を主張する、責任をとらないヤツほど人に責任をとらせたがる。 そして、何かのときに、そういう輩の尻を拭く羽目になるのが、愚直に社会的責任を負う善良な市民なのである。 また一方、多くの店舗(企業)が苦渋の休業をしている中、「自分さえよければ」と営業するパチンコ店にも不快感はある。 しかし、多分それは、死活問題を抱えているが故の営業。 経営者からすると「倒産or存続」、従業員からすると「失業or雇用継続」という事情がある。 大袈裟な言い方かもしれないけど、倒産・失業は社会的な死を意味する そして、それがキッカケとなり、生命の死にまで至ることも少なくない。 事実、自殺原因の多くは経済的な問題が占めている。 したがって、役所から指示されようと、世間から非難されようと、「これで死ぬわけにはいかない!」と営業するのである。 そして、それは、「自分が生き残るためには、他人が死ぬこともいとわない」という解釈にもつながる。 もはや、「弱肉強食」というより、「弱肉弱食」・・・露骨な言い方をすれば「共喰い」。 どうしたって殺伐感は否めない。 ただ、実際は平時より繁盛している店もあるようだけど、せめて、休業しても そこそこ耐えられる体力のある店が「他店が休んでいる今が儲けどき!」とばかりに営業しているわけではないことは信じたい。 この状況は、かつての世界恐慌にも例えられる。 それが第二次世界大戦にまで発展した経緯を知ると、「なるほどな・・・」と思ったりするけど、「歴史の勉強になる」なんて呑気なことは言っていられない。 やがてくる“第二波”のことを考えると、「新しい生活様式」とやらを定着させることも急務だろう。 検査・医療体制を立て直すこと、ワクチン・治療薬を開発することはその道のプロにしかできないけど、「新しい生活様式」を確立して定着させることは我々一般市民にもできる・・・我々一般市民がしなければならないこと。 安易にコロナ前の生活様式に戻るのではなく、“新しい生活様式”を習慣化させる必要がある。 「自分一人が変わっても社会は変わらない」と思うかもしれない。 しかし、社会を変えるのは一人一人。 一人一人がつながれば大きな力になる。 中国武漢の街角でうまれた小さなウイルスが、今や、世界中に多大な影響を及ぼしているように、我々も連帯して、従来の生活様式を大きく変革するしかない。 人前で口と鼻を露出するのを恥ずかしく思うようになるのかな・・・ 人と向かい合わず、無言で食べるのがテーブルマナーになるのかな・・・ 人の間近で話すのが無礼な社会になるのかな・・・ ヒソヒソ話が上品に思われるようになるのかな・・・ “新しい生活様式”って、なんだか窮屈そうな感じもするけど、皆が明るい気持ちで工夫すれば、ちょっと面白い世の中になるかもしれない。 前述のとおり、我が“ライフケア事業部”において、今月は“仕事ゼロ”も覚悟していた私だけど、そこそこの仕事にはありつくことができている。 で、一戸建・マンション・団地etc・・・あちこちの現場で、多くの人と会っている(一人をのぞき、あとは全員初対面)。 正直いうと、この時世では、あまり人と会いたくないのだけど、食べていくためにはそうもいかない。 そこで感じたのは、人々の“感染に対する警戒心の薄さ”。 “どこの馬の骨かわからないヤツ(私)”と会うというのに、中には、マスクもつけず接近会話する人もいた。 “俺だってウイルスを持ってるかもしれないのに・・・初めて会う人間(私)に対して警戒心を持たないのだろうか・・・”と不思議に思ったくらい。 一方の私は、警戒しまくり。 マスク着用はもちろん、エレベーターボタン・インターフォン・ドアノブ等、なるべく素手で触らないように心がけ、依頼者と顔を合わせた時も、 「マスク着用のままで失礼します」 「こういう時世なので、お互い距離をとりましょう」 「換気にもご協力ください」 というセリフが、定番の挨拶になった。 しかし、対する人々はほとんど「?」みたいな、怪訝な表情を浮かべた。 私の言いたいことを理解しつつも、まるで「別世界の出来事」「他人事」のように捉えている様子。 話しはじめるとそれに夢中になり、私との距離なんか一向に気にせず。 更に、窓も玄関も閉めっぱなし。 狭い密室に複数名の親族がひしめき合うように集まっていた現場もあった。 さすがにその状況には耐えきれず。 他人の家に上がり込んでおいての失礼は承知のうえだったが、一言いって窓を開けさせてもらった。 ドアストッパーがないところでは玄関ドアに自分の靴を挟んで通気したこともあった。 なんだか・・・“私一人が異常に神経質”みたいな雰囲気で、罪悪感みたいな変な気マズさを抱きながら。 確かに、もともと、私は、不安神経症気味で神経質。 “潔癖症”とはちょっと違いのだが、病的なまでに敏感になるときもある。 思い返すと、子供の頃からそう。 それは自分でもわかっている・・・自分でもイヤになるくらい。 そのせいでもあるのだろうけど、ここ二カ月で、それなりの数の人達と接してきた中で、私以上に感染対策に神経をすり減らしていそうな人には一度も会わなかった。 悪意に至るような疑心暗鬼は自制しなければならないけど、ただ、人と会うときは、相手も自分も「保菌者かもしれない」という前提が必要ではないだろうか。 私は、うつされるのも嫌だし、うつすのも嫌。誰だってそうだろう。 どこまでが必要で、どこが適正で、どこからが過剰なのか判断できない感染対策が変なストレスになって、無頓着な人に対して嫌悪感を抱くようにまでなってしまっている。 今、多くの人が苛立ち、多くの人が悩み、多くの人が苦しんでいる。 “自粛疲れ”“自粛飽き”“自粛ストレス”が膨らんでいるのも事実。 この先 困窮しないともかぎらないので、余計なお金を使いたくない時期ではあるけど、私も、観光・レジャーに出かけたい衝動に駆られるときがある。 海、山、スーパー銭湯、居酒屋・・・ しかし、出かけない・・・今は、出かけないことが課された責任、社会貢献。 今、私が出かけるのは、4~5日に一回のスーパーと、たまの銀行・郵便局くらい。 それも、前述のような始末だから、人の影にビクビクしながら、人の存在にモヤモヤしながら、人の無頓着にイライラしながら。 ウイルスには厳しくとも、人には優しくするべきなのに。 ただ、従来の自分の生活スタイルを冷静に思い返してみると、今の外出自粛生活と大差ないことがわかる。 仕事!仕事!でロクに休みもなく、外食も少なく、旅行なんて滅多にしていなかった。 外で飲むなんて年に二~三度、近年は、たった一~二度。 スーパー銭湯だって、多い時季は週一くらいのペースで行っていたけど、何ヶ月も行かないときもあった。 コロナ渦の前後で、何が変わったというのか・・・ にも関わらず、これまでとは違ったストレスがかかっている。 一体、これはどういうことなのか・・・ひょっとしたら、気づかないうちに心の自由を失っているのかもしれない。 行動の自由が奪われたからといって、心の自由まで失う必要はないのに。 自己分析の結果、おもしろいことがわかった。 それは、「やっていることは変わらなくても、禁じられるとストレスがかかる」ということ。 “飲みにいかない”ことと“飲みにいけない”ことは、双方、飲みに行かないことに変わりはないのに、後者は妙にストレスがかかる。 “飲みに行かない”という事実(行為)に変わりはないのに・・・ それは“選択の自由”“自由意思による選択権”が奪われているから。 つまり、行為そのものではなく、この“自由意思による選択”の有無が明暗を分けているのである。 “自由意思による選択”、ネガティブな方に言い換えると「欲望の赴くまま」。 往々して、“志望”“願望”と違い、“欲望”というものには邪悪な性質が入りやすい。 “欲”というものは、もともと、人間の本性の中にある悪性に近いところにあるから、膨らみ具合によっては、どうしても穢れてくる。 だから、欲望は、あるレベルで抑えなければならない。 そうしないと、自分を、家族を、他人を、世の中を破壊する。 多くの人に心当たりがあるだろう、欲望に負けて虚無感や罪悪感を覚えたことが。 一時的に満たされはしたものの、結果的に後悔したことが。 また、欲望に支配されている人をみて、嫌悪感や悍ましさを覚えたことが。 欲望を抑えるには、先を見とおす目が必要。 欲望の赴くままに生きたら、または、自律・自制とともに生きたら、この先、自分がどうなるか、家族がどうなるか、世の中がどうなるかをリアルに考える。 また、未来に目的をみつけること、目標を定めることもひとつ。 合格を目指して勉学に励む学生のように、一流を目指してトレーニングに励むアスリートのように、そして、金持ちを目指して汚仕事に励む特掃隊長のように(?)。 あとは、“心は自由である”ということを認識し、“心の自由”を楽しむこと。 それは、妄想・幻想・夢想・空想の類と似ているものであるけど、もっとハッキリしたもので、理想の自分・理想の人生をもって過ぎた欲望を中和してくれる。 それでも、「そんなの知ったことか」「今がよければ それでいい」「自分さえよければ それでいい」といった短絡的な思考しかせず、欲望を抑える努力をする気がない者には、もはや ここで言うことは何もない。 とりあえず、「自分のケツは自分で拭け!」・・・いや、「自分で拭けないケツは汚すな!」とだけ言っておこう。 「あの時はよかったなぁ・・・」 今、ほんの少し前のことを思い出してそう想う。 「まだ、あの時の方がよかったなぁ・・・」 先々、今のことを思い出して、そう想わないようにしたい。 そのための今・・・自制の時世なのである。

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隣人哀

「誠意をみせろ!誠意を!!」 男性は、私に向かって大声をあげた。 ことの発端はこう・・・ とあるアパートの一室で、高齢の住人男性がひっそりと孤独死。 放置された日数は少なくはなかったが、冬の寒冷の中で腐敗速度は低速。 遺体は、膨張溶解ではなく乾燥収縮。 異臭は発生してはいたものの、それは「腐乱死体臭」というより、高齢者宅にありがちの“尿臭”にちかいもの。 私からすれば“ライト級”・・・いや、“ストロー級”、ホッとできるくらいの現場だった。 故人の部屋は独立した角部屋。 アパートの構造上、隣室との間には、共用階段が挟まれていた。 つまり、壁一枚で隔てられた隣室はないということ。 しかも、室内の異臭は軽度で外部漏洩はなく、近隣に迷惑がかかっているというようなことはなし。 それは、不動産管理会社の担当者も現場に来て確認していた。 私は、調査からほどなくして作業に着手。 軽症の現場とはいえ、油断せず、近隣に対する配慮も怠らず、いつものように自分のセオリー通り組み立てた手順で作業を進めた。 遺体汚染は素人目にはわからないくらいのもので、尿臭も素人でも我慢できるくらいのもの。 床の残った体液は最初の30分で、室内にこもった尿臭も数日のうちに収束。 何も言われなければ、そこで人が亡くなったことはおろか、まだ、そこで人が生活していると言ってもいいくらいの部屋に戻った。 「隣の部屋の人が“クサい!”って言ってるんですけど・・・」 作業も終盤にさしかかった頃のある日の夕方、管理会社の担当者から電話が入った。 何日も前に特掃は終わらせ、消臭消毒作業も山場を越えて仕上げ段階にきてのこと。 「何かの間違いじゃないですか?」 まったく心当たりのない私は、首をかしげた。 現場を知っている担当者も、どうにも解せない様子だった。 しかし、臭覚は、個人的・主観的な感覚。 臭気の感じ方に、個人差があっても不自然ではない。 また、腐乱死体臭の場合、一度嗅いでしまうと精神にニオイがついてしまい、「鼻について離れない」と言われることも多い。 結局、「電話じゃラチが明かない」ということで、私は、急遽、現場へ出向くことに。 一日の仕事を終え帰り支度も終わった段階、暗くなってからの出動はとても面倒臭くはあったけど、付き合いの長い担当者は、いつも私の仕事ぶりを評価してくれ、何かとよくしてくれていた。 その恩義もあったので、私は、さっさと支度を整えて現場へ急行した。 現地に着いた頃、陽はとっくに暮れ、冷え冷えとした空気が暗がりを覆っていた。 まず、私は、現場の部屋の前へ。 周辺の空気を慎重に嗅いだが、当初から変わらず特に異臭は感じず。 ただ、常日頃から凄惨現場で苛めぬかれている鼻が、腐乱死体臭を“異臭”として感知しない可能性もある(そんなはずないけど)。 ミスがあってはいけないので、私は、念には念を入れて、外気と部屋の前の臭気を交互に嗅いだ。 結果、異臭を感知しなかった私は、「異臭なし」と判断。 「何かの勘違いだろう・・・」と、苦情を言ってきている隣室のドアをノック。 すると、中から初老の男性がでてきた。 「アンタが掃除の業者?」 初対面なのに、不愉快なタメ口。 「そうです・・・」 礼をわきまえない人間は嫌いなのだが、私は、敬語対応。 「クサくて部屋にいられないよぉ!どおしてくれんの?」 完全に上から目線で、何かをたかるような ねちっこい口調。 「特に変なニオイはしませんけど・・・」 まったく異臭を感じない私は、感じたことを率直に返答。 「何いってんだよ!こんだけ人に迷惑をかけといて、“臭わない”はねぇだろ!」 男性は不快感を露わに。 「この仕事、恥ずかしいくらい長くやってますから、ここに遺体のニオイがないことくらいわかりますよ」 こういうときに熱くなるのは禁物、私は冷静さを保つよう努めた。 「俺が“クサい!”って言ってんだからクサいんだよ!」 男性は、どこかの政治家みたいに論点をすり替えて、テンションを上げた。 「私が“クサくない!”って言ってるんだからクサくないんですよ!」 内心で苛立ちはじめていた私は、ギアを戦闘モードに切り換える準備をしながら男性の揚げ足をとった。 そんな平行線のやりとりを繰り返しているうちに、男性の怒りは頂点に。 「バカ野郎!」「掃除屋のクセに!」等と語気を強め、人差し指を頬にあてて「こっちの知り合いもいるんだからな!」と、化石級の脅し文句で威嚇してきた。 そして、そんなやりとりの中で、「誠意をみせろ!誠意を!!」と、大声をあげたのだった。 良識をもって作業を行うことはもちろん、近隣や他人に社会通念を逸するような迷惑をかけてはいけない。 しかし、根拠のない苦情や理不尽な行為は 到底 容認できるものではない。 そのうえ、私は、臆病者のくせに気は短い。 争いごとは好まないくせに、勝算のある揉め事は嫌わない。 また、弱虫のくせに口は達者で、屁理屈をこねるのも不得意ではない(“口が減らないヤツ”と褒めて?くれる人も多い)。 「金がとれる」等と、どこかの愚か者に入れ知恵でもされたのだろう・・・話の中で男性の魂胆が見えた私は“ニヤリ”。 「ちょっと不動産会社の担当者と相談しますから・・・」 と、男性の要求を検討する素振りをみせながら、一方、頭の中では形勢逆転を画策しながら、一旦、戦線を離脱した。 私は、ことの経緯を担当者へ報告。 どんな人間であれ不動産会社にとって入居者は客であるから、不愉快な気持ちを抑えて丁寧に対応してきた担当者だったが、事の真相が“金銭目的のゆすり”であろうことがわかると声色が変わった。 怒りを滲ませ、「何を言われても無視していい」とのこと。 更に、「反論していいですか?」の問いに、 「言いたいことがあるなら言い返してもいいですよ!」 「ただ、挑発にのって手を出したりしないように!」 「あと、念のため録音に気をつけて下さい」 と、男性に応戦することを認めてくれた。 本件の責任者である担当者の許可を得た私は、意気揚々かつ虎視眈眈と戦線に復帰。 再び男性と対峙し、先に口火を切った。 「ところで、“誠意”って何ですか? 具体的に言ってもらわないとわからないんですけど!」 「“誠意”ったら“誠意”だよ! ガキじゃないんだからそんなのすぐわかるだろ!」 「そう言われてもねぇ・・・」 「自分の頭で考えろ!」 「私、頭が悪いものでわからないんですよぉ・・・具体的に教えてくださいよ!」 「バカか!?オマエは!」 「そうなんでしょうねぇ~・・・全然わからないなぁ~・・・」 「ホント!頭にくるヤツだ!!」 男性が金銭を要求しているのは明らかだったので、私は、男性の口から「金」という一言を引き出そうとした。 しかし、自ら「金をよこせ」なんていうと詐欺・恐喝などの犯罪になりかねない。 あと、感情にまかせて暴力をふるっても同様。 男性はそこまでバカじゃなかったのではなく、同じようなことをやらかして懲らしめられた過去があったのだろう、その一言は口にしなかった。 また、拳をあげる素振りで威嚇してきたものの実際に殴りかかってくることもなかった。 男性はフルパワーで脅しているつもりだったのだろうけど、一方の私は、恐いどころか痛くも痒くもなし。 余裕の薄ら笑いを浮かべながら、“のらりくらり”と“おとぼけ”に徹した。 しかし、終わりの見えない口論は時間の無駄。 押し問答に飽きてきた私は、男性の弾が尽きそうな頃合いを見計らって、攻勢に転じた。 「○○(故人)さんが亡くなって発見されないでいる間はクサくなかったんですか!?」 「悪臭があったとしたら最初からのはずなのに、なんで、今頃になって言ってくるんですか!?」 「“クサい!クサい!”って、そもそも遺体のニオイを知ってるんですか!?」 「もともと△△(男性)さんちがクサいんじゃないですか!? その証拠に、アパートの他の人は誰も何も言ってきてないじゃないですか!」 「何をせしめたいのか、ハッキリ言ったらどうですか!?」 と、嫌味弾をたっぷり込めたマシンガンをブチかました。 更に、腹いせついでに、 「△△さんは、この先ずっと死なないんですか? その歳で、この先○○さんみたいにならない確証はあるんですか?」 「そもそも私が出したニオイじゃないんだから、私が文句を言われる筋合いはないですよ!」 「“一人きりで亡くなった○○さんが悪い”とでも言いたいのなら、どうぞ当人に言って下さい! 近くで、こっちを見てるかもしれませんから!」 「ただし、その後、何が起こっても私は知りませんけどね!!」 と、グーの手に立てた親指で故人の部屋をクイクイと指しながら、私は、意味のないことを ことさら意味ありげに言い放った。 「・・・そ、そんなの俺の知ったことか!」 男性は、まともに反論できず“蜂の巣”に。 子供のようにそう言い捨てると、スゴスゴと自室に退却。 まだ弾が残っていた私が“話はまだ終わってない!”とばかりにドアをノックしても反応せず、天敵を前にしたカタツムリのように、そのまま部屋に閉じこもってしまった。 そして、これに懲りたのだろう、その後も、私が故人の部屋に作業に入っても自室から出てくることはなかった。 そんなある日、私が隣室に立ち入る物音をききつけた男性が、久しぶりに自室から出てきた。 「新たなネタを仕入れたか? 今度はどんな因縁をつけてくる気だ?」と私は警戒。 しかし、何だか、それまでとは様子が違う。 前回同様に私を睨みつけてくるのかと思ったら、予想に反し、どことなく気マズそうな顔に不気味な愛想笑いを浮かべて近寄ってきた。 「ご苦労様・・・この前は申し訳なかった・・・お互い、なかったことにして水に流してよ」 何があったのか、男性は私に謝罪。 私は、それまでとは別人のような低姿勢に気持ち悪さを覚えたものの、謝られて無視するのは礼に反する。 「こちらこそ・・・あの時はちょっと言い過ぎたかもしれません・・・スイマセンでした・・・」 男性に対する不快感は拭いきれなかったが、私は男性の謝罪を受け入れ、自分の非礼も詫びた。 それにしても、男性が態度を豹変させたのは奇妙だった。 しかし、何があったのか・・・その理由はサッパリわからず。 管理会社が金品を渡したわけではないし、大家に叱られたわけでもなさそうだし、他の住人にたしなめられたわけでもなさそう。 「何が起こっても知らないぞ!!」といった、私の意味深な言葉が効いたのか・・・ とにかく、その訳はわからず仕舞いだった。 何はともあれ、表面上でも男性と和解できたことはよかった。 自分に非がないとしても、心にシコリが残ってしまい気分が悪い。 また、作業が無事に完了ことにもホッとした。 ともすれば、忍耐力の弱さがでてしまい、大ゲンカに発展して仕事どころではなくなったかもしれないから。 そうなったら、私の仕事を信頼してくれている担当者や その向こうにいるアパートオーナーを裏切ることにもなったし、更には他住人や故人にまで迷惑をかけてしまうことにもなりかねなかった。 後腐れなく一仕事を終えることができて、清々しい気分に包まれた私は、 「ひょっとして・・・○○(故人)さんが、ちょっと恐いイタズラでもしたのかな・・・・・Good job!」 と、青く澄んだ大空を仰ぎつつ、透明になった故人に微笑んだのだった。

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