見えない敵

流れるのは厳しいニュースばかりで、世の中の空気は重い。 目に見えるほどの明るい兆しもなく、暗雲はどこまでも垂れこめている。 そこへもってきて、私は、安酒で誤魔化せるほど能天気な性格ではなく、なかなか明るい気持ちになれないでいる。 そんな今月中旬のこと。 私は、仲間4人と、とある民家に向かった。 現場は一般的な木造二階一戸建、築年数は50年くらいか。 空き家になってから、そう時間が経っていなかったにも関わらず、家屋は著しく劣化。 室内もまた、結構な傷みが出ていた。 頼まれた仕事は家財撤去、依頼者は亡くなった住人の遺族。 「遺族」といっても、子や孫ではなく、ちょっと複雑で薄い関係。 家財や家屋はもちろん、故人にも特段の思い入れはないようで、非情にも見えるくらい冷淡。 他人に見せないようにしていても、“欲”というものは、なかなか抑えることができず、どことなく滲み出てしまうもの。 多分、それに突き動かされたのだろう、さっさと家を空にして土地を金に替えたいようだった。 単独でやる特掃にかぎらず、複数名で取りかかる一般現場でも、だいたい、作業難易度の高い部分や危険度の高いところ、特別な汚染や汚物があるようなところは私が担うことになる。 遺体系・腐敗食品系・液物系・害虫害獣系・糞尿系etc・・・ 社内ルールでもなく、作業マニュアルでもなく、私が志願するわけでもなく、暗黙の慣習として。 ず~っとそうだから、私も、抗うことなくそれに従っている。 この現場でいうと、当該部分は物置にあたる。 庭に建つ、今にも倒壊しそうな古ぼけた木造物置。 もう、何十年も放置されている感じで、いかにも不衛生。 皆が各々の作業場所に散るのに合わせて、私は、その物置へ。 建てつけのわるい戸をこじ開けると、ヒンヤリとした湿気と肺に悪そうなカビ臭がお出迎え。 薄暗い中、目を凝らしてみると、何もかもにホコリが厚く堆積し、モノクロに変色。 まるで、時代に取り残されたような景観。 加えて、見えないところに何が潜んでいてもおかしくなさそうな、不気味な雰囲気が漂っていた。 私は、ウジやハエはもちろん、ゴキブリやネズミも平気。 蜘蛛やトカゲもかわいいもの。 蜂やムカデも何とかなる。 ただ、蛇はイカン、蛇だけはダメ。 実物はもちろん、玩具のゴミ蛇も無理。 TVとかで、蛇の写真や映像がでてきても目をそむけるくらい。 子供の頃は平気だったのに、いつの頃からか超苦手に。 そんな具合だから、人の死痕でも悲鳴なんか上げないのに、紛らわしいところに紛らわしいかたちで置いてあるロープやホースに悲鳴を上げてしまうこともある。 ハブやマムシじゃなければ、そんなに怖がることもないのだろうけど、あの形状は生理的に受けつけないのだ。 何年か前、一人でアパート孤独死現場の特掃をやっていたとき、天井から蛇が降りてきたことがあった。 わずかな物音で気づいたのだが、天井からのびてくる長いヤツをみたときの私の狼狽ぶりには、上から見ていた(?)故人も、思わず笑っちゃったかもしれない。 あとは、とある御宅のタンスを動かしたら、その裏からデッカイ蛇がでてきてビックリ仰天!、悲鳴とともに飛び跳ねて逃げたこともあった。 また別の民家で、 “ネズミ避け”のつもりのようで、家のあちこち 庭のあちこちに何十匹ものゴム蛇が置いてあったこともあった。 玩具とはいえ、どこを向いても、どこに行っても蛇だらけ。 しかも、何かの陰に隠すように、見えないところに置いてあるものだから、いつも突然現れる。 その驚いたこと、その恐ろしかったこと、その不気味だったことといったら・・・もう泣きそうになった。 本件の物置にトカゲはいたけど、幸い、蛇はおらず。 近くに蜂も飛んでいたが、こちらがちょっかいを出さなければ問題ないので、特に気にならず。 しかし、そこには、目に見えない厄介なヤツが他にいた。 そう・・・そこにいたのは“ダニ”。 私は、そこに多くのダニが潜んでいるのを、身をもって知ることとなった。 作業を始めると、目が痒くなるくらい大量のホコリが舞った。 それは防ぎようがないので、我慢して作業を進行。 すると、ほどなくして、首元が痒くなってきた。 そして、その痒みは、どんどん強くなり、首元から脇、背中へと拡大。 しかし、別に“痛い!”わけじゃないから耐えられないものではなく、そんなことで作業を止めるわけにはいかない。 私は、ヒドくなるばかりの痒みと戦いながら、作業を続行した。 もっとも重症だったのはクビ周り。 ぐるりと360°赤いブツブツができ、これが痒いこと!痒いこと! しかし、掻くと余計にヒドくなるので、痒くても我慢! 仕事をしている昼間は気が紛れてそんなに気にならなかったけど、夜になると、感じる痒みは倍増! 特に、就寝中が強烈! もう、痒くて!痒くて!まったく我慢することができず。 ボリボリ ボリボリ、手が届くところは軒並み掻きまくってしまった。 手が届かない背中は、愛用の孫の手をつかってまで。 それが二~三日続き、その間はロクに眠ることができなかった。 私は、頭だけじゃなく身体もかなり固い。 自分の手で背中を掻くことができない。 で、“孫の手”を持っている。 昔ながらの木製のヤツではなく、金属製でアンテナのように伸縮する最新式(?)のヤツ。 よくある木製のモノは先端(指先部分)が丸みをおびていて肌への当たりがソフト。 掻き心地は弱くて、痒みがとれるどころか、逆に歯痒い思いをしてしまう。 一方、私が持っている金属製のモノは先端(指先部分)が鋭利で肌への当たりがハード。 それを痒いところに押し当てて、ガリガリ!と痛いくらいに擦りつける。 すると、その強い掻き具合により、バツグン!の爽快感が得られ、これが相当に気持ちいいのである。 ちなみに、私は、耳カキもハード派・・・「スーパーハード派」といってもいいくらい。 中学の頃からそう。 しかし、耳鼻科医は、「耳掃除は綿棒でソフトにするべき」「耳垢は全部とってはいけない」と警告。 しかし、これは、「雑巾だけで特掃をやれ」って言っているようなもの(じゃない?)。 綿棒で撫でるだけなんて、そんな赤ん坊みたいなことやってられない。 固く鋭利な耳カキ棒で、ガリガリ!やらないと満足できない。 私は、それを、一日に一度とかではなく、二~三度、多いときは五~六度もやる。 となると、それなりの備えが必要(大袈裟な言い方だけど)。 で、いつでもどこでも耳カキができるよう、耳カキ棒は身の回りの至るところ置いてある。 自宅にも何本か持ってるし、会社のデスクにも、車にも積んである。 たまにしか使わない、カバンやリュックにも。 掻きたくなったらすぐに掻けないとストレスになるから、いつでもどこでも掻けるようにしてある。 26とか27くらいのときだったか、運転中の耳カキで右耳の鼓膜を破ったことがあって、今でも難聴と耳鳴りが残っているのに、まったく懲りていないのだ。 ダニの話に戻る。 あれから二週間余が経ち、今、症状はほとんど治まっている。 ブツブツはかなり小さくなり、残っている痒みもわずか。 本来なら、蕁麻疹がでてときみたいに、すぐ病院に行けばよかったのかもしれないけど、もともと私は病院嫌い。 その上、コロナにも注意しなければならず、皮膚科とはいえ不要不急で病院に行くと色んなところに迷惑がかかってしまう恐れもあった。 で、結局、病院には行かず、自然治癒に任せて今日に至っている。 特効薬もワクチンもない今、この新型コロナウイルスも自然治癒を待つのが治療法の主流だそう。 根本的には、人がもつ免疫力や治癒力が頼り。 必死に行われている治療を批判するつもりもなければ、懸命に動かされている医療を軽視しているわけでもないけど、その根幹は原始的。 ということは、日常生活において免疫力を下げないよう気をつけ、免疫力を高めるよう努めることが大切だろう。 感染しないよう充分な対策を実行し、また、“自分が保菌者かもしれない”という危機感を持ち、その上で、人に感染させないよう細心の注意をはらうことと同じくらいに。 問題は、身体のこと以外にもある。 そう・・・、生活の問題・・・お金の問題・・・経済の問題。 リーマンショックのときは、我々のような零細末端の珍業種には、ほとんど影響がなかった。 東日本大震災のときは仕事が激減したが、二カ月を過ぎた頃から徐々に復調してきた。 で、今回のコロナ災難は・・・ これは、それよりも、はるかに大きな影響がでる可能性をはらんでいる。 そして、終わりの見えないこの未知数が、不安感・悲愴感を増大させている。 そんな中、コロナ対策支援金として、政府が一人10万円くれるという。 はじめの30万円のときは、自分が対象外になることは容易に想像できたので何の興味も覚えなかったけど、今回の10万円は私ももらえるようなので関心がある。 ただ、その政策・・・いわゆる“金のバラマキ”には賛成できない。 「安直」というか「安易」というか、そういった浅慮感が否めない。 確かに、今の今、現金がなくて困っている人は多いのかもしれない。 「今をしのぐことで精一杯、その先のことなか考えられない」という人もいるかも。 そういう私だって、お金は必要、お金はほしい。 しかし、世帯差・個人差はあれど、これで延びる“生活寿命”は約一ヶ月。 たった一ヶ月延びるだけ、たったの一ヶ月・・・一ヶ月なんてすぐ過ぎる。 一ヶ月経って、支給金を使い果たして、スッカラカンになって、その後、どう生きればいいのか・・・一ヶ月先に待っているのは、今と同じ苦境なのである。 国も、“焼け石に水”であることは分かってながら、“目先の急務”としてやらざるを得ないということか。 他に妙案があるわけでもないから「愚策」とまでは言えないけど、布マスク二枚も同様、政治家の人達は、本来、頭がいいはずなのだから、もうちょっとマシな政策が打てないものかと、首を傾げてしまう。 もちろん(?)、政策に同調できないからといって、私は、受給を辞退するつもりはない。 「受給を辞退しても10万円は国庫に溶けるだけで何の役にも立たない(byどこかの市長)」といった啓けた見識もなければ、金銭欲を押しのけてまで貫けるほどの信念も持っていない。 ただ、「お金がほしい」「お金が必要」というだけのこと。 結局のところ、誰も最後まで助けてくれないし、自己責任・自助努力・・・個々で何とかするしかないのだから。 ・・・と、評論家気取りで私見を述べてはいるものの、ことの是非を判断するのは一個人(私)ではなく社会、成否を見極めるのは一個人(私)ではなく未来、そして、評価を下すのは一個人(私)ではなく歴史。 ただ、この大きな難局において、今は、批判は口(文字)だけにして、国や自治体の方針に従うべきところは従い、協力すべきところは協力すべき。 同時に、痒いところに手が届く孫の手のような策を練りながら、蛇のようにしなやかに 苦難と苦悩の隙間をすり抜けながら、粘り強く生きるしかない。 敵は、新型コロナウイルスだけではない。 そこから派生したツラい出来事・・・怒り、悲しみ、苦しみ、恐怖、不安、絶望感が渦巻く現実も然り。 しかし、この苦境は、これまで我々が目もくれなかったことに目を向けさせ、多くのことを学ばせ、たくさんの知恵を得させてくれるのかもしれない。 人格を練り、品性を磨き、自分を鍛えるチャンスを与えてくれるのかもしれない。 そして今、“ぜいたくウイルス”“わがままウイルス”“傲慢ウイルス”“怠惰ウイルス”“冷淡ウイルス”etc・・・ それぞれ自分が感染している“見えない敵”を私達に気づかせ、その病を治す免疫を与えてくれるのかもしれないのである。

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